2013/12/23
トルーマン・カポーティ / クリスマスの思い出
「遠い日、僕たちは幼く、弱く、そして悪意というものを知らなかった」
以前にも書いたかも知れないけれどカポーティを語る上で欠かせないキーワードに「イノセンス」という言葉がある。
誰にでもある幼少期の美しい記憶、外的世界から身を守るために作り上げた小さな世界、ある場合には仲間になる動物や老人。
多くの人々は成長するに従って、そういった記憶や思いや忘れていくものだが、カポーティは成長したあとでもその思いを忘れなかった、そういう意味ではカポーティは成長しなかった、とこの本を訳した村上春樹は書いている。大雑把に言うとそういうことをあとがきで書いている。
毎年クリスマスが来ると、主人公の7つの少年、そして遠戚のおばあちゃんと彼女の飼っている犬は大忙し。フルーツケーキを焼いて、ツリーを準備して、お互いのプレゼントを用意して。
悪意のない完璧な物語が美しい文章で語られる。また、挿絵にもなっている山本容子さんの素敵な銅版画がこの本の魅力の一つにもなっている。手に取るだけで、ああ、美しい本だな、と言える本はやっぱりある。
こういった物語が世界中で読まれていることは微笑ましいことだと思うし、文学というか芸術の持つ素晴らしい一面だと思う。
そしてクリスマスという多くの人が微笑むこの日には本当に不思議な力があるのだな、と毎年考えたりする。
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クリスマスと言えばお家やお店に飾られる様々なリースがあります。
あまり告知をしていないのですが、当店ではリースや花束、グリーンの作成、販売をしています。
ご注文やご相談を承っていますので、お気軽にご連絡下さい。
2013/11/18
田代一倫 / はまゆりの頃に
写真家、田代一倫が自分と同じ歳だと知ってこの本への興味はますます強くなった。
自分は偶然というべきか転職のため2011年1月に東京を離れ、大阪へ来ていた。
2011年3月11日はずっとテレビを見ていた。その日から見聞きする情報から自分が東京へ行くことはしばらくないだろうと思った。子どもが生まれてからは尚更その思いは強くなった。
しかしながら被災地へ自ら向かう人々もたくさんいる。
写真家もその一人だった。
ここには被災地の悲惨な光景ではなく、そこに暮らす人々の肖像が453点収められている。
皆一様にカメラのレンズに顔を向けている。険しく力強い顔つきの人もいるが笑顔の人が多い。春も夏も秋も冬もただそこで暮らしている人々が撮られている。
テレビや新聞の情報から伝わらない何かが自分の胸に迫ってくる。ページを捲る度にどきどきする。何故だろう。そこに写っている人の背景、服装、持ち物、そして目を見る。そしてまた読み返す。そしてこの二年間を思い返したりしている。
2011年4月に漁師を撮影した際の覚え書きにこうある。
「お前も荷物を降ろすの手伝え!」
・・・支援物資を下ろしている漁師さんに、こう言われました。しかし自分は写真を撮ることを一番に考えるべきではないかと思い、背中に視線を感じながら引き返しました。
きっと撮影の間にこういう場面に出くわすことは何度もあったはず。それでも写真を撮り続けて一人の出版社の方と共に素晴らしい本を創りあげた。出会ったことも、顔も知らない同じ年の写真家に敬意を抱いている。
2013/10/07
ヘレン・バンナーマン / ちびくろ・さんぼ
子どもの頃読んだ記憶のある絵本を3つ選べ、と言われたら「ぐるんぱのようちえん」「ごんぎつね」「ちびくろ・さんぼ」ですかね。次点で「エルマーとりゅう」かな。でもこれは絵本じゃないか。
でもこれらの本はいつしか無くなってしまって、実家の母親に電話で聞いたら「さあ、どこいったのかな」と言われてしまいました。
「ちびくろ・さんぼ」今読んでも面白いですね。トラがぐるぐる回って溶けてバターになってそれをパンケーキにして食べてしまうんだもの。おかあさんのまんぼは27も、おとうさんのじゃんぼは55も、そしてちびくろ・さんぼは169も食べてしまうんだもの。
なんでトラが溶けてバターになるのか(村上春樹は上手くこれを比喩としてある小説で使っていますね)、食べたお皿の数はなにか意味があるのか、考えてもしょうがないんですが、考えると面白い。意味なんてきっとないんでしょうけど。
意味のないものが面白い。わかってしまうと面白くない。もうすぐ2歳になる娘と絵本を読んでいると分かります。仕組みがわかってしまうともう興味がないみたい。娘はこの「ちびくろ・さんぼ」と「そらいろのたね」に夢中です。「そらいろのたね」なんてたねを植えたら家が出てくるんだからもうわけわかんない。どちらもユーモアがあって面白いです。絵本は幾ら読んでもわけわかんないから大人になっても面白いのでしょう、きっと。
この窮屈な社会においては形のあるもの、意味のあるものばかりを求められがちですが、わからないものはわからないでいいと思いますし、軽く笑えるユーモアが足りない気がしますね。でもそれはまた別の話か。
2013/09/16
織田作之助 / 競馬
僕に取ってオダサクと言えば「夫婦善哉」ではなく「競馬」ですね。「六白金星」もいいな。
オダサクは敬愛する先輩、Mさんに教えて貰った。Mさんは以前勤めていた会社の先輩で文学や音楽にやたら詳しくて何でこんなこと知っているんだろうと思う程雑学みたいなものにも詳しかった。
もちろん会ったことはないけれど植草甚一みたいな人だ。
「オダサクええで」とMさんに言われてちくまの短篇集を借りた。
面白かった。
人情モノ、と一言では片付けられない位に文章が上手く引きつけられる。
この作家は結末を決めて一気に書き上げるらしい。
破天荒な主人公たちが一喜一憂しながら転がり落ちるように人生を突き進んでいく。
その転がり落ちるスピードは作者の筆のスピードと比例している。
「競馬」は主人公の教員が酒場の女「一代」に惚れ込み結婚するが実家と縁を切られ、一代は間もなく病気で死に、職を失い、貯金が底を付き、競馬に夢中になる。競馬場で過去に一代と関係を持ったらしい男と出会い嫉妬に駆られ悩み、それでも競馬は一代の一の字をねらって1の番号ばかりを執拗に賭け続ける。何が上手いって競馬のレースと主人公の手に汗握る姿の描写は映画を見ているようだ。
ビールを一杯飲む間に一人の男の強烈な物語を味わえる。
Mさんも「競馬が最高」と言っていた。
Mさんには他にも内田百閒や小島信夫や保坂和志やボネガットやカポーティやたくさんの作家を教えて貰った。
何が言いたいかと言うと、面白い先輩がいると世界が広がる。
2013/08/16
丸谷才一 / 笹まくら
あなたも、戦争について考える日が来るかもしれない。
とりわけ、太平洋戦争や日中戦争や原爆について。
何をきっかけに考えるかは分からない。
「はだしのゲン」かも分からないし、「火垂るの墓」かも知れない。
「戦争と平和」かも知れません。
もしかしたら「永遠のゼロ」かも知れない。
何かの映画かも知れないし、1枚の写真がきっかけになるかも知れない。
あるいは全く別の出来事で考えることになるかも知れない。
でも、それは歴史の教科書ではないと思う。
ある、一つの物語があなたの心に楔を打ち込むと思う。
戦争を起こすのは国であり、宗教であり、主義であり、人であり、それらは全て物語で人がいる限りそこに物語があるから。
「笹まくら」は徴兵忌避者の物語です。5年間全く別の人物に成り代わり、戦争参加を避けてきた人の話です。戦時中、そして戦争が終わって20年後の生活が交錯しながら物語は進みます。主人公の内面描写は見事としか言い用のないもので、流れていく時間と景色に気付くと自分も組み込まれています。
ぼくはこの本をたまたま父親の本棚から借りて読んで以来、戦争について考える時間が増えたように思います。物語が頭に残ったからだと思います。
戦争に関する本はたくさんあります。
たくさん読んで考えてください。
僕もまだまだ読んでみようと思います。
2013/06/21
太田大八 / かさ
親友に子ども(女の子)が生まれたので絵本を贈りました。
私の大好きな絵本で「かさ」という絵本です。
この絵本に言葉はありません。
女の子がお家から赤い傘をさして、お父さんを駅まで迎えに行くお話です。
全編モノクロで描かれていますが、女の子の持つ傘だけが赤く色付けされています。
(モノクロに赤と言えば「シンドラーのリスト」の赤い服を着た女の子を思い浮かべますが、赤という色には何か不思議な力があること感じずにはいられません。口紅は何故赤なのでしょう、花の色は何故赤がまず思い浮かぶのでしょう)
公園を横切り、池の鴨を眺め、友人とすれ違い、橋を渡り、ドーナツ屋さんの前を通り過ぎ、歩道橋を超え、おもちゃ屋さんのショーウインドウで立ち止まり、横断歩道を渡って、お父さんに黒い大きな傘を持っていく。
言葉はありませんが、女の子が歩いて行く様子を見ていると何か心に語りかけてくるものがあります。それは音楽を聴いたり、写真を見たり、絵を見たりして感じる何かと同じものです。
機会があればこれからもこの絵本を誰かに贈りたいと思います。
2013/05/20
山本善行 / 関西赤貧古本道
腹を抱えながら読んだ。
正に抱腹絶倒。
面白すぎる。
今では善行堂の店主として知られる山本善行さんが2004年に書かれたエッセイ。
古本入門、みたいな本は数多あるけれど、こんなに面白い本は読んだことが無いし、これからも無いと思う。
たくさん勉強させられたのだけれど、何よりも、この本の魅力は山本善行さんが古本を好きだという気持ちが一つ一つのページ、文、言葉から溢れていることだと思う。
私はこの本を読んでいる間、ムッシュかまやつの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」が耳から離れなかった。(何故か家にはCD音源が2枚、ドーナツ盤が1枚ある)
ゴロワーズにこんな一節がある。
君はたとえそれがすごく小さな事でも
何かにこったり狂ったりしたことがあるかい
たとえばそれがミック・ジャガーでもアンティークの時計でも
どこかの安い バーボン・ウイスキーでも
そうさなにかにこらなくてはだめだ
狂ったようにこればこるほど
君は一人の人間として
しあわせな道を歩いているだろう
読書中、どこからともなくムッシュの声が響いてくる。
古書を探す際の作法(服装から!)に始まり、均一台、絶版、雑誌、古本祭り、東京遠征、オークションまで、古本に纏わるあらゆる事柄が面白おかしく書かれていて、一晩で読み終わってしまった。
古本のみならず、何かに夢中になったことがある人(それがたとえ凄く小さな事でも)は、とても面白く読んで頂けると思う。
2013/04/28
村上春樹 / ねじまき鳥クロニクル
村上春樹の作品で一番好きなものはどれか?
難しい質問ですね。
ビートルズで一番好きなアルバムはどれか選ぶ位難しいです。
「世界の終わり」のときもあれば「ダンス・ダンス・ダンス」のときもある。短編にも幾つか大好きな作品があります。もちろん「1Q84」も好きです。
でも、長い間何度も読み返しているのは「ねじまき鳥」かも知れません。
「ねじまき鳥」の何が僕をこんなに惹きつけたのか。
好きなシーンがあるんです。
3部の、もうクライマックス、というシーンです。
突然消えてしまった妻を何とか取り戻そうと主人公は遂にどこかのホテルの一室で妻(と思われる女性)と暗闇の中で対面します。
彼女は暗闇の中で小さなため息をついた。
「どうして私をそんなに私を取り戻したいの?」
「愛しているからだ」と僕は言った。
結局のところ(春樹さん風に言えば)、この台詞が言いたかったのだ、と僕はずっと考えています。言うのは簡単だけれど伝えるのは難しい。この言葉を伝えるために実に約1000ページを使っています。このシンプルな言葉を伝えたいがために、暴力があり、死があり、性があり、戦争があり、人生で起こりうるようなあらゆる事が怒涛のように主人公にのしかかって来るんです。これは小説家にしか出来ない業ですね。
「愛しなさい」そして「生きなさい」(これはもう一つの非常に重要なテーマだ)と村上さんはずっと言い続けているのだと思うんです。
それっていつの時代にも、どんな人にとっても、大切なことですよね。
2013/04/02
オノ・ヨーコ / グレープフルーツジュース
しばらく、長い間、この本をずっと机に置いていつでも読めるようにしていました。
気づいたら二冊あって、誰かにプレゼントをしました。
誰かは忘れてしまいましたけど。
初めて読んだ時、オノ・ヨーコって凄い!と思いました。
ジョン・レノンが「yes」の文字をルーペで見て雷に打たれた気持ちになったみたいに。
50の詩というか、センテンス、インストラクション、何と言えばいいか分からないですが、言葉が収められています。
僕は次の言葉が好きです。
「心臓のビートを聴きなさい。」
「地球が回る音を聴きなさい。」
「立ち尽くしなさい。 夕暮れの光の中に。 あなたが透明になってしまうまで。
じゃなければ あなたが眠りに落ちてしまうまで。」
50個全て並べてしまいそうなのでここで止めておきます。
お店を開いたなら、ずっと並べて置きたい一冊なんです。
2013/03/18
保坂和志 / プレーンソング
保坂和志は好きな作家で、おこがましいけれどこんな小説が書けたらいいな、と思っていた時期があった。そして、保坂和志のデビュー作「プレーンソング」の舞台は西武池袋線の中村橋で、僕はその3つ隣の駅に3年ほど住んだことがあって勝手に親近感を持っている。住んでいた時期は全然違うけれど、電車の窓から中村橋の街を眺めながら、あんな生活が出来たらいいな、と時々思った。
主人公が女の子にふられて一人で住むことになってしまった2LDKに写真家を目指しているような男とその彼女と、映画を撮ろうと思って撮っていない男が転がり込んで来て生活する話で、特に何が起こるわけでもない。主人公は猫に餌をやったり、競馬に行ったり、女の子とデートするだけで、物語はこの4人の会話だけで成り立っていく。以後の保坂作品がそうであるように何か特別な事件は一切起こらない。この人はこういうことを考えているのかな、あの人はこういうことを言いたかったのか、こうするとあの人は喜ぶだろう、あんなことがあったな、と日常の思考をただ延々と描き続ける。小説を読む時間はその作品の中に流れているけれど、保坂作品には日常との境界線が希薄でそれが心地よい。
最後にはみんなで海へ行ってボートの上での会話だけが15ページほど続く。誰が喋っているかも分からなくなる。「いいねえ、海って」というのが最後の台詞だ。
楽しかったとかまた行きたいと思った、とかいうノスタルジアは一切ない。ただ、時間が波のように流れていく。
そして僕は何も起こらない哲学的な小説を書いてきた保坂さんがこれから何を書いて行くのか、とても楽しみにしている。
2013/02/25
田中慎弥 / 第三紀層の魚
「共喰い」を文庫で読んだ。芥川賞受賞作だけあって面白かった。でも僕は一緒に収録されている「第三紀層の魚」を読んで一気にこの作家を好きになってしまった。
衰弱していく曽祖父に「チヌ」を見せるため海釣りへ通う少年、戦争と自殺した息子の影を背負う曽祖父、曽祖父を介護する祖母、夫を病気で亡くし一人で少年を育てるため懸命にうどん店で働く母親、関門海峡のある町での物語。描写が抜群に上手くて、海や魚の匂い、介護や葬式の風景、親子の会話が目の前を通り過ぎていく。更に方言が土の匂いを運んでくる。
子供の頃、大人の涙や会話の意味を良く理解出来ないことがあった。そして自分が何故泣いているのかを。そんなことってなかったですか?
少年は曽祖父の死後、一人で海へ行き、関わりを持ちたくなかったよく見かける鼻の潰れた男に助けられながら、大きな「コチ」を釣る。そしてその場でわけもわからず泣きだしてしまう。曽祖父のこと、東京へ引っ越すこと、苗字が変わるかも知れないこと、男に助けれられたこと、塾のこと、あらゆる理由を考えながら涙が落ちる。この場面は、目頭が熱くなった。
是非読んで欲しい。
古典的な名作になって教科書にも載せて欲しいなと思った。
文庫版に収録されている寂聴さんとの対談で芥川は好きじゃないけど、「トロッコ」は好きと言っていたのに凄く納得した。
2013/02/01
レイモンド・カーヴァー / 象
レイモンド・カーヴァーの「象」は「ささやかだけれど、役に立つこと」や「大聖堂」と並んでカーヴァーの中でも最も好きな作品。何というか、小説っていいなと思わせてくれる小説。日本で言うとやはり志賀直哉の短編を思わせるのかも知れない。
この「象」という短編に所謂動物の「象」は出てこない。借金まみれの家族と老後の母親を助けるために朝から夜まで働き続けているある孤独な男の物語だ。社会の片隅で孤独や哀しみと向かい合い暮らす人々を描いてきたカーヴァーの代表作と言えるだろう。破産してしまった弟、大学で遊び呆ける息子、どうしようもない男とくっついてしまった娘、養育費を送金している別れた女房、毎月の仕送りなしでは暮らしていけない遠く離れた母親、身を粉にして働き続ける主人公の僕。救いのない、終着点の見えない、物語。
だが、「僕」はある晩夢を見る。僕は五歳か六歳でまだ生きていた父親に肩車をしてもらっている。簡潔に引用する。
「さあ、ここに乗れよ、と父さんが言った。そして僕の両手をつかんでひょいと肩にかつぎあげた。僕は地上高く上げられたが、怖くはなかった。父さんは僕をしっかりとつかまえていた。~僕は両手を放し、横に広げた。そしてバランスを取るためにずっとそのままの格好でいた。父さんは僕を肩車したまま歩き続けた。僕は象に乗っているつもりだった」
夢はこの後覚める。次の日は夏のとても気持ちの良い日で、「僕」は通勤途中にふと立ち止まって両手を広げる。
救いようのない物語だが、何か心にずっしりと残るものがある。余韻ではない。記憶を突き動かす「何か」。
いつか僕もこういう夢を見るのだろうか。肩車をしてもらった記憶はあるけれど、いつか全く思い出せない。風景も背景も思い出せない。
何が言いたいかと言うと、、、、、小説っていいですよね。
「象」は中央公論新社から出ている全集をはじめ、村上春樹訳の幾つかの作品に掲載されいます。
2013/01/13
村上春樹 / 5月の海岸線
初めて読んだ時よりも、数年後になって大きな意味や違った感触が浮かび上がってくる本がある。それも読書の喜びの一つだろう。
僕の実家は神戸の西の端の海の近くにある。駅のホームに立つと時折風が潮の香りを運んでくる。子供の頃は夏休みになると実家へ帰り、歩いて海水浴へ向かった。綺麗な海では無かったけれど、子供の頃はそんなこと気にならなかった。海へ潜っては魚を探し、砂浜を歩いては貝殻を拾った。その砂浜は今はもう無い。海は埋め立てられ、巨大なショッピングセンターが建っている。海沿いを走る国道は週末になると渋滞になる。恐らく日本中でこういう風景が見られるのだろう。
村上春樹の短篇集「カンガルー日和」に「5月の海岸線」という短編がある。(恐らく)極めて私的な小説で、主人公は10年ぶりに郷里の海のある街へ帰り、失われた海岸線を目の当たりにし、過去を回想する。海岸線は山を切り崩した砂で埋められ、その上には高層マンションが墓標のように立ち並んでいる。著者も神戸の側の海のある街の出身だ。村上さんはこの小説を80年代初頭に発表している。僕が初めて読んだのは確か90年代後半。その時は、「そうか、そういう風に時代が移り変わって、自分も大人になると過去を懐かしんだりするんだろうな」と思った程度だった。けれど、そんな簡単な問題ではなかった。
今読んでみると恐ろしく暗い小説だ。そして著者の怒りが如実に表に出てきている。ただの回想録で終わらないのはある「死」が物語に深みを与えているからだろう。そして主人公は「予言」をする。その遠く押しやられた海岸線と墓標を眺め、「君たちはいつか崩れ去るだろう」と。
「予言」は80年代を過ぎ、90年代を過ぎて、2010年を過ぎても生き続けていた。失ってしまったものは、自然だけではない。ここに書かれている「魂」のようなものも失ってしまう。
2013/01/07
つげ義春 / 紅い花
つげ義春の短編「紅い花」を読んだ時、こんな漫画があるんだと天地がひっくり返るほど驚いた。今までに読んだどんな漫画ともつげ義春の漫画は違う世界を描いていた。
「紅い花」は思春期を迎え身体の異変に気付く少女とそれを不思議そうに見守る少年の優しい心を描いた名作だ。少女の身体と川を流れる大きな紅い花が絶妙に狂おしく絡んでくる。
後日、早川義夫さんの本を読んでいたら、早川さんが本屋をやっていた頃ブックカバーにこの「紅い花」の最後のシーンを使っていると知って嬉しかった。
何故なら僕はつげさんの漫画も早川さんの音楽や文章も大好きだったから。
2013/01/04
マイルス・デイビス自叙伝
和歌山県の白浜町にとても美味しいサラダとピザ、それに美味しいお酒を出しているお店があって、その店のトイレに額に入れられたマイルスの写真が飾ってある。大型の生写真で、1969年のニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した際のものらしい。激動の時代だ。アメリカの社会も音楽シーンも。この時代にマイルスは物凄いアルバムを幾つも作った。「イン・ア・サイレント・ウェイ」「ビッチェズ・ブリュー」などなど。大きな眼鏡をかけ、マイルスは客席を真っ直ぐ見つめている。その誇りと自信に溢れた顔を見ていると胸が熱くなり、背筋が伸びてくる。この自叙伝を読んだ時と同じ感覚だ。
マイルス自らがその波瀾万丈の人生を語り尽くした本で、ジャズに夢中になっていた頃に読んだ。以来何度も読み返している。チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーに対する憧れ、コルトレーンやトニー・ウィリアムス、ウェイン・ショーターをはじめとするバンド仲間たちとの出会い、モンクやミンガスとの喧嘩、ジャズの枠を超えたジミ・ヘンドリックス、プリンスとの邂逅。そして多くのミュージシャンとの死別。その裏側で語られる人種差別やクスリ漬けの日々、多くの女性との恋といった数々のドラマ。マイルスが送った人生の全てが記されている。中山康樹さんの訳も絶妙でぐいぐい引きこまれ、マイスルのもつエネルギーが指先から伝わる名著だ。
マイルスは過去を振り返らず(ただし思い出は大切にした)、その音楽は進化を続け(ビル・エヴァンスという白人のピアニストに出会った時、黒だろうが白だろうが黄だろうが赤だろうが素晴らしい音楽を奏でるならどんな人間でも構わない、と断言している。)、自分を信じて突き進んだ。何度もダメになりそうな度に自分を励まし、素晴らしい音楽を純粋に追求した。マイルスが残した音楽は人類が残した唯一無二の遺産と言ってもよいものだと思う。
新年早々にその写真を見て、身が引き締まる思いだ。
お前は何をやりたいんだ?そのために努力をしているのか?そう問われている気がした。
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