堀江敏幸の初期の作品に「ボトルシップを燃やす」という作品があります。
少年の私が高台にある三階建の廃墟に友人Nと忍び込むという話です。今は廃墟となってしまったその建物の三階バルコニーで大きく風を孕んだシーツ。そのバルコニーへどうしても行きたかった私はNの誘いに乗ります。かつては喫茶店だったその建物の中で見つけた大量のマッチ箱とボトルシップ。私はこの綺麗なボトルシップを持ち帰ろうかと思案します。物語はシベリア極東の猟師の物語アルセニエフ「デルス・ウザーラ」とリンクしていきます。
軍事調査と地理測量に果てしなく広がるタイガを訪れたアルセニエフとその道案内を請け負ったデルス。二人の友情とやがて訪れるデルスの死。私は廃墟でのNとの短い共同作業と彼の死を思い浮かべる。
ぼくが心を惹かれたのはその共同作業、廃墟での出来事です。地下の車庫へ大量のマッチ箱を持ち込んだNは中身をばらまいてマッチの先端を重ね合わせ砦を築いていく。手伝ってくれと私は言われ、二人は黙々と貝塚を作り上げていく。やがてNが火を放ち暗闇のなかでマッチの火が燃え上がる。炎が下火になるとNは階上からボトルシップを運び込み、今度はこれを燃やそうと言う。
「燃やすってなにを?」
「船さ、船を燃やすんだ」
暗闇で火をつける、という行為にぼくは心惹かれるようです。太古の昔からある暗闇と火。果てしなく想像が広がります。暗闇自体、境界のないものだからでしょうか。火を崇める宗教も少なくないようですが、なんとなくわかる気もします。ゆらゆらと不安定に揺らめく炎。アルセニエフとデルスが見ていた果てしなく広がる森林と野営の火。「ボトルシップを燃やす」は短編ですがまるで長編小説のような広がりと奥深さをぼくには想像させました。この話は終わりなく、暗闇の中をどこまでも海のように広がっているのではないか。
燃やす、という事では同じく村上春樹の「アイロンのある風景」という短編を思い浮かべます。こちらは誰もいない冬の海岸で老人と女が焚き火を燃やす物語です。ここでもジャック・ロンドンの小説が重要な要素として出てきます。そして二人は死について語る。海岸で焚き火を燃やすただそれだけの話しですが、暗闇と海というものが物語りに深みを与える。
暗闇で火を灯すという行為は人間にとって何かとても重要なことではないか、今そんなことさえ思いました。
誰もいない網走の海岸で友人と焚き火をしたことがあったけれど、あれは確かに忘れられない思い出です。
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