2012/12/25

コーマック・マッカーシー / ザ・ロード


冬は冷たく、暗い、孤独の季節だ。「冬の本」と言えば、世紀末の世界をただ南へと漂流するこの父と息子の物語を思い浮かべる。読後、冷たい風の中を家路に着いたように喉がカラカラになったのを覚えている。

作者のコーマック・マッカーシーはこの作品でピュリッツァー賞を受賞した。アメリカを代表する現代の文豪だ。日本でもヒットした「ノー・カントリー」(血と暴力の国)の原作者と言えば知っているかも知れない。

物語の舞台は滅亡の一途を辿っている。何かが原因で(恐らく核戦争)世界は分厚い雲に覆われ、太陽は姿を消し、気温は下がり続け、灰が降り積もる。動物も植物もほとんど見られない。生き残った人々は食べ物を巡って殺戮、略奪の限りを尽くし、飢えに耐えかね人肉食にまで堕ちる。
そんな世界を父と息子がただひたすら一つの道をショッピングカートを押して進んでいく。銃を手にして。

父は彼、息子は少年、として三人称で描かれる。物語の始まりは優しさと温もりで溢れている。

「森の夜の闇と寒さの中で目を醒ますと彼はいつも手を伸ばしてかたわらで眠る子供に触れた。~彼の手はかけがえないのない息に合わせて柔らかく上下した」

心理描写は全くなく、彼と少年の会話だけが物語に深みを与えている、会話に鍵括弧は無い。

それなに、パパ?
網笠茸。網笠茸だ。
あみがさたけって?
キノコだよ。
食べられるの?
ああ。齧ってごらん。
おいしい?
いいから齧ってごらん。

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もう死ぬと思っているだろう。
わかんない。
死にはしないよ。
わかった。
でも信じてないな。
わかんない。
なぜもう死ぬと思うんだ?
わかんない。
そのわかんないというのはよせ。
わかった。
なぜもう死ぬと思うんだ。
食べ物がないから。
今に見つけるよ。
人間は食べ物なしでどれくらい生きられると思う?
わかんない。
わからなくてもどれくらいだと思う?
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こういった世界にあって、二人だけが人間らしさを失っていない。
水だけを口にしながらも何故か少年だけは生命力に満ち溢れている。
それは彼にとっても、僕にとっても、全ての読者にとって少年が希望に見えるからだと思う。
日本もアメリカも、大きな転換期を迎えているけれど、希望に目を向ければ進む道は分り易いと思うのだが、どうだろう。



2012/12/07

ニック・ホーンビィ / ハイ・フィデリティ


 もうすぐつかまり立ちを始めそうな娘が危ないということで部屋を模様替えすることになった。レコードと本の山を整理することになって文庫を片付けていたらこの本が出てきた。思わずページを捲ってしまってニヤニヤしながら読んだ。ジョン・キューザックの映画が最高だったので知っている方も多いと思う。原作を読んでから映画を見るとゲンナリしてしまうものだが、この映画は良かった。最高だった。ジャック・ブラックが最高だ。レコード屋の店主の恋愛ヒストリーが語られるだけなのだが何故こんなにおもしろいのだろう。

 物語はこんな風に始まる。
「無人島に持っていく5枚のレコード、ていう感じでこれまでの別れのトップ・ファイブを年代順にあげれば次のようになる。(1.2.3.4.5と女性の名前が続く)ほんとうにつらかったのは、この五人だ。ここに君の名前があると思ったのかい、ローラ?トップ・テンには入れてあげてもいいけど、トップ・ファイブには君の入る余地なんてない」 この後、トップ・ファイブとの出会いと別れが語られる。そして今、ローラと向き合うことになって本題へ入っていく。

 どうでも良いことだし、女性に失礼な文で始まるが、何となく引きこまれてしまう。ニヤニヤしながら。主人公はチャンピオンシップ・ヴァイナルというレコード屋の店主で、所謂音楽ジャンキーだ。ソウルとパンクを愛している。店にはバリーとディックという音楽馬鹿の二人のバイトがいて、週三日しか雇っていないのだが勝手に毎日やってくる。バリーは毎日クラッシュを口ずさみながら店に入り、客を選び、客に強引に自分のお薦めを買わせてしまう狂った店員だ。古今東西有名無名のアーティストがやたら出てくる。
 
 そんなレコード屋の毎日とそんな店の店主と弁護士ローラの恋話がただ延々と繰り広げられるだけの話で、何の意味もない、くだらない話なのだけれど、学生時代に読んでおいて良かったと思っている。ポップ・カルチャーは意味もなく、くだらない。ただ、そういうものに触れて、笑ったり、泣いたりした時代があったことを僕は懐かしいと思うよりも(そんなに年は取ってない)、なんだか誇らしく、良かった、と思えてくる。

 

2012/11/26

曽我部恵一 / 昨日・今日・明日 / 虹を見たかい?


よくある質問であなたに最も影響を与えた人は誰ですか?という質問。もしくはそんな類の質問。
誰か一人に絞るのは難しい。
でも、すぐに思い浮かぶのは曽我部恵一さんということになる。し、そんな会話になればだいたいそのように答えている気がする。もう15年以上、曽我部恵一氏の動向に注目し、曽我部恵一氏の音楽を聴き続け、サニーデイ・サービスの音楽を聴き続けている。
神戸の片隅の高校ではサニーデイの音楽を誰も知らなかった。と、思う。誰にも言わずに僕は電車から海を眺めながら「愛と笑いの夜」を聞き続けていた。
幾つかの素晴らしいアルバムを発表し、バンドは解散し、曽我部恵一氏は家庭を持ち、レーベルを立ち上げ、独立した。僕はバンドのアルバムを聴き続けながら大学を卒業し、成人し、CDショップへ就職した。

バンドが解散すると、幾人かのファンは離れていったが僕は彼の音楽を聴き続けた。音は変わり、散文的で、都会の空気を吸い込んだ、松本隆のような言葉は消えたが、彼の魂のような、真実だけが胸の中から抉り取られたような言葉が飛び出してきた。ラッパーになっていたかも知れないというほど、彼の言葉への執念は凄い。膨大な数のLIVEをこなし、音源が溢れるように発売される。顔つきも違う。昔からのファンと新しいファンを獲得し、今なお躍動し続けている。
僕もいつの間にか家庭を持ち、何か導かれるように中途半端な本屋を立ち上げた。
大げさに言えば曽我部恵一氏の音楽が血となり、肉となり、曽我部恵一氏が今なお精力的に活動していることが僕に元気をくれる。

ここにある二冊のエッセイにはそんな彼の人生が詰まっている。ひとつ「昨日・今日・明日」は1999年、(MUGENを発表したころ)、もう一つ「虹を見たかい?」はその8年後に刊行されている。何を見て、何を聞き、何を思ってきたのか。嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、寂しいこと。ご本人もこれは人生の本、と書いておられる。
この本からたくさんの事を学んだ。もちろん音楽も映画もたくさん教えてもらった。何でもない毎日の事が書かれているのだけれど、何でもない毎日がいかに大切なことか。

時々立ち止まっては読む、そんな大切な本。

2012/11/19

井上雄彦 / バガボンド

バガボンドが再開しました。ずっと楽しみにしていました。
どんな展開になるのか予想も出来なかったのですが、期待通り面白かったです。わくわくしました。

伊織という少年と泥だらけになって畑を耕すシーンが出てきます。(とにかくこの34巻は土とか泥とかのシーンがやたら多い) 耕しては雨で崩れて耕して、それだけのシーンがしばらく続く。頭や目で読むというよりも身体で読んでいるような感覚になりました。

井上さんは「SWITCH」のインタビューで物語にはあまり興味がない、と言っています。スラムダンクでさえ、ただいい試合を描きたい、いいプレイを描きたい、みたいなことを仰ってました。宮本武蔵、という人の在り方を描きたい、物語というよりは詩に近いと思う、と。ほとんど即興に近い感覚で描いているんだろうな、と僕は思いました。
モードジャズみたいだ、と思ったのです。基本の筋(物語)はあるけれど、ちゃんとそこへ戻ってくるならどこへ行っても、自由にやってもいいよ、みたいな。「絵」にこだわっているのは一目瞭然だし、本人も公言しておられるから、ストーリーやセリフよりもまず「絵」が飛び込んでくる。セリフを目で追うよりも「絵」を一枚一枚めくっているような感覚になるのでどうしても音楽のように身体的なリズムが出てくる。だから僕はわくわくしているのだと思います。「絵」だけはもう自由に本当に楽しそうに描いている。その楽しさが伝わるから余計わくわくする。同時に「命」を扱う漫画なので更にずっしりと心に響く。巌流島まで描くのか、いつ終わるか分からないけれど、重石のように心に残る作品になりそうです。

僕はガチガチのジャンプ世代ですが、井上雄彦さんと荒木飛呂彦さんだけは小学校から今でもコミックを楽しみにしています。

2012/11/05

村上龍 / 限りなく透明に近いブルー


小説を読むことの面白さを知ったのは何の本だったかと考えていたらこの本に行き着いた。
初めて読んだのは高1か高2だったと思う。
中学の終わり頃からだんだん読書が好きになっていった。最初は母親の影響で「三銃士」とか「ロビンソン・クルーソー」とか「ジュラシック・パーク」とか「フォレスト・ガンプ」なんかを読んでいたと思う。家にあったものを適当に読んでいた。

高校は全く面白くなくて授業中は小説か漫画ばかり読んでいた。当然の成り行きと言うべきか、村上春樹に出会い、村上龍に出会う。辻仁成なんかも良く読んでいた。「ノルウェイの森」は大好きな小説だったし、今では村上春樹は僕にとっても特別な作家だけれど、本当の意味で小説の面白さ、読書の喜びを教えてくれたのは村上龍だったと思う。「コインロッカーベイビーズ」「海の向こうで戦争が始まる」「ポップアートのある部屋」「トパーズ」「村上龍料理小説集」etc
その中でも「限りなく透明に近いブルー」がたまらなく好きだった。

破滅的な登場人物たち、過激な性描写、ドラッグ、ドアーズにストーンズ、ストーリーよりもその詩的イメージに僕は魅了された。村上龍はいつも怒りながら優しい文章を書いている。その文体は多くの人が認めるように天才的と言っていい。「現存する作家の中では、文章に関しては最大の天才と言えるでしょう」と高橋源一郎はある著作の中で言っている。僕もそう思う。きっと凄いスピードで文章を書くんだろうなと思う。
それはさておき、毎晩適当にページを開いて読んでは眠る日々があった。20代になってからもあった。いつも主人公がリリーに話しかける様子を見ていた。それはいつも限りなくイノセントなイメージを僕に与えてくれた。自伝的小説とは言え、著者があとがきで女の子に手紙を書いているのも何故かセンチメンタリズムを軽く通り越しているようでかっこよかった。

そんなわけで今でも膨大な量の書籍を出し続けているけれど、新作の小説が出るとわくわくする。

2012/10/01

内田樹 / 街場の文体論


この本を読んで泣いた、という人がいて僕はまさか、と思っていました。
この本を読み終えるまでは。
文体論の本で、「クリエイティブ・ライティング」と呼ばれる授業をまとめた本で、何故涙を流すのか。まさか、と思っていました。

しかし僕は泣いたのです。この本の最後の授業は「リーダビリティと地下室」というテーマで最後の項は「言葉の魂からくるもの」というものでした。ここでは村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチが引用されていました。村上春樹の熱心な読書ならお分かりでしょうがここで引用されているのは有名な「卵と壁」の部分ではなく彼の死んだ父親の話です。僕も著者と同じように驚きました。村上春樹が家族、しかも父親について話すことは極めて稀だったからです。ここではとても書き切れませんが、父親は徴兵され中国へ送られた。前後生まれた村上春樹は毎日仏壇の前で手を合わせ祈る父親へ尋ねます。「なぜ祈るのかと」「戦場で死んだ人々のために祈っているのだ」と父は息子に教えます。そして父は息子の知らない記憶を持ち去っていく。

この本を読み終える日の朝、たまたま、本当に偶然に、村上春樹が朝日新聞へ中国との領土問題について寄稿した。文化交流に影響を及ぼす事を憂い、「国境を超えて魂が行き来する道筋を塞いではならない」と書いています。
村上春樹と文体論にどういう関係があるの?と聞かないでください。

ただ、僕はこの時「言葉の魂からくるもの」というのを「理解」しました。この本を読んでから、もう一度朝日新聞を読んだ時、著者の言う「届く言葉=言葉を届かせたいという熱意」「襟首をつかまれて、頼む、わかれ、わかってくれ」と身体をがたがた揺さぶられるような感じ、というのが理解出来た。著者の言うように脳ではなく、皮膚で理解出来た。
著者は言う『僕らの身体の中にあって、言葉や思想を紡いでいく基本にあるものはかたちあるものではない。~言葉というのは、「言葉にならないもの」を言わば母胎として生成してくる。それをソウルと言ってもいい』
そのような言葉だけが他者に届く。
魂の継承を理解し、著者と村上春樹の言葉が「届いた」から僕は泣いたのだと思います。

言葉を届けることは本当に難しい。でもこの本を読んでまた少し言葉について理解出来ました。他にも教育、子育て(子どもを育てることを損得勘定で考えてしまう社会)、お金について言及しています。著者の本はとにかく読み易い。難しい単語も幾つも出てきますが、それでもぐいぐい読ませる。何かモヤモヤして生きづらい社会だなと思っていたら少しスッキリするかも知れません。

2012/09/14

堀江敏幸 / ボトルシップを燃やす(おぱらばんより)

堀江敏幸の初期の作品に「ボトルシップを燃やす」という作品があります。
少年の私が高台にある三階建の廃墟に友人Nと忍び込むという話です。今は廃墟となってしまったその建物の三階バルコニーで大きく風を孕んだシーツ。そのバルコニーへどうしても行きたかった私はNの誘いに乗ります。かつては喫茶店だったその建物の中で見つけた大量のマッチ箱とボトルシップ。私はこの綺麗なボトルシップを持ち帰ろうかと思案します。物語はシベリア極東の猟師の物語アルセニエフ「デルス・ウザーラ」とリンクしていきます。

軍事調査と地理測量に果てしなく広がるタイガを訪れたアルセニエフとその道案内を請け負ったデルス。二人の友情とやがて訪れるデルスの死。私は廃墟でのNとの短い共同作業と彼の死を思い浮かべる。

ぼくが心を惹かれたのはその共同作業、廃墟での出来事です。地下の車庫へ大量のマッチ箱を持ち込んだNは中身をばらまいてマッチの先端を重ね合わせ砦を築いていく。手伝ってくれと私は言われ、二人は黙々と貝塚を作り上げていく。やがてNが火を放ち暗闇のなかでマッチの火が燃え上がる。炎が下火になるとNは階上からボトルシップを運び込み、今度はこれを燃やそうと言う。
「燃やすってなにを?」
「船さ、船を燃やすんだ」

暗闇で火をつける、という行為にぼくは心惹かれるようです。太古の昔からある暗闇と火。果てしなく想像が広がります。暗闇自体、境界のないものだからでしょうか。火を崇める宗教も少なくないようですが、なんとなくわかる気もします。ゆらゆらと不安定に揺らめく炎。アルセニエフとデルスが見ていた果てしなく広がる森林と野営の火。「ボトルシップを燃やす」は短編ですがまるで長編小説のような広がりと奥深さをぼくには想像させました。この話は終わりなく、暗闇の中をどこまでも海のように広がっているのではないか。

燃やす、という事では同じく村上春樹の「アイロンのある風景」という短編を思い浮かべます。こちらは誰もいない冬の海岸で老人と女が焚き火を燃やす物語です。ここでもジャック・ロンドンの小説が重要な要素として出てきます。そして二人は死について語る。海岸で焚き火を燃やすただそれだけの話しですが、暗闇と海というものが物語りに深みを与える。
暗闇で火を灯すという行為は人間にとって何かとても重要なことではないか、今そんなことさえ思いました。

誰もいない網走の海岸で友人と焚き火をしたことがあったけれど、あれは確かに忘れられない思い出です。

2012/08/22

トルーマン・カポーティ / 夜の樹


村上春樹の「サラダ好きのライオン」を読んでいると久々にこの文句に出会ったので、カポーティを読み直した。僕はカポーティが大好きなんです(ただ、ティファニーで朝食を、だけは良く分からない。その内分かる日が来るんだろうか)。その文句とはこちらです。
「何も考えまい。ただ風のことだけを考えていよう。」 有名ですね。恐らく。村上春樹氏もこの文句からデビュー作「風の歌を聴け」というタイトルを頂いたと述べられている。

 この文句は「最後の扉を閉めて」という短編の最後のセンテンスになっている。改めて読んでみると、本当に孤独な小説だ。もう孤独な人を究極に追い詰めている。世界中の人々に愛されるように文章はため息が出るほど本当に美しいけれど、こんなにたくさんの孤独を書く作家は恐らく他にいない。その孤独には夜のように深い闇の孤独があり、氷のような冷たい孤独がある。この人の物語を読んでいると実際に孤独という物体に触れているような気がしてくる。

 20代の時に出会って良かった。10代で読んでいたら窒息していたかも知れないと今更思ってしまった。

 でも今は、孤独な話だなあと思いながらも、その文章の美しさに心を奪われてしまう。何故だろう。家族を持って孤独に興味を失ったからかも知れない。今、孤独を書き切る作家はあまりいないのではないでしょうか。どうなんだろう。愛や孤独は語りつくされた気がする。そんな事を思いながら、書きながら、孤独ってなんだ、とまた思考がぐらぐらと揺れている。

 この「夜の樹」という短編集はタイトル作品はもちろんの事、「ミリアム」「誕生日の子供たち」など有名な素晴らしい作品が収められていてお勧めです。眠る前に読むと寂しい気持ちになれます。

2012/08/21

田中康夫 / 神戸震災日記


 古本屋さんで¥105-で購入した。たまたま目に付いてそのままパラパラとめくってからそのままレジへ持っていった。以前から探していたわけではない。なんとなくその時出会ったから買った。古本屋さんにはこういうふとした出会いみたいな楽しみがある。

 目に付いたのは一応理由がある。僕は神戸出身でこの震災により実家は半壊した。神戸の垂水区という所で淡路は目と鼻の先だ。ただ、僕はその地震を体験していない。僕はその時栃木県にいた。15歳の多感な頃で高校受験を控えていた。その日の朝は良く覚えている。いつも通り目が覚めて朝ごはんを食べようと階段を下りていくと父親と母親がTVに釘付けになり、「電話が繋がらへん」と右往左往していた。

 その1月17日の4日後に著者は大阪に降り立ちその足で50ccのバイクを買い求め被災地へ入る。著者は何度も自分に問いかける、「自分一人に何が出来るのか?いや、出来ることを出来る範囲でやっていこう」と。「自分には何が出来るのかという問いかけ」が必要なのだと著者は言う。
TVでは伝わらない現場での出来事が生々しく現実の空気を纏って日記に綴られていく。1.17の出来事を忘れないためにもこの本は読み継がれて欲しい。

 また、別の意味でもこれは忘れてはならないと思う所があった。当時虚しいお題目が起こった。「今度は震度7でも耐えられる新幹線や高速道路を作れ」
このお題目に対し、著者は「自然を冒涜しているし、人間をも冒涜している」と痛烈に批判している。この出来事と全く同じ出来事を今、福井県で目の当たりにしている。

 1.17からその後も世界中で様々な出来事が起こりながらも、時代は良くなっていると信じている自分の思いと国は変わらないのかという落胆の思いが入り混じった。


2012/07/31

伊藤整 / 近代日本の文学史


とても面白く読んだ。面白くてあっという間に読み終わってしまった。文学好きにはたまらない一冊だ。良質な本を出版している夏葉社さんより。

あれも読んでない、これも読んでない、知らない作家だな、そんな背景があったのか、と驚きと発見の連続だ。勉強にもなる。読書は学ぶことで、学ぶことは面白いと思うことだから、大変面白い一冊だと思う。

僕は音楽が大好きだから、所謂ディスクガイドみたいなものが出るとついつい買ってしまう。ロック名盤、レアグルーヴ探検、アンビエントガイド、jazzガイド、等など毎年のように出ているけれど、ある時期は端から端まで買っていた。あれ聴いてない、これ聴いてない、このジャケット素敵だな、これ何年の作品なのか、これあのレーベルか、みたいに終わりがない。レコードは魔物だ。

この本は僕の中でこういったディスクガイドのような楽しみ方も出来た。
でも、当然ディスクガイドとは違う。

この本は伊藤整という一人の小説家であり批評家が歴史と時代背景を追いながら近代日本の文学の形成を簡潔にかつ分かりやすい様に描かれている。簡潔だが明治から昭和初期までの怒涛のような時代だから当然「熱」を帯びている。どんなに簡潔な文章で綴られ、明晰な分析が行われていてもその「熱」を感じられるからまた面白い。

自然主義発生後の「永井荷風」の出現についてこう書いている。
「~とつぜん、若々しい情感と詩的なイメージとを使った若い作家が出現して、曇天の風景の中にとつぜん太陽が輝きだすのを見る感じを人々に与えた」
文学史を語る中でこんな風に比喩を使っている箇所は少なく、著者が興奮しているのが分かる。僕は笑顔で読んだ。
「永井荷風」と「谷崎潤一郎」は頻繁に出てくる。やはり長く生き、昭和初期を生き抜いたのは大きな事なんだな、と改めて感じた。
大好きな志賀直哉が多くの作家に慕われているのも改めてわかり嬉しかった。
それにしても、当然というべきか「異性」の存在が作家の運命を握っている例が多い。少なくない人が相手のために死んでいく。現在はそういう例が少ないみたいだけれど、時代の流れというものなのか。
また、漱石の扱いが小さくないか、などと感想が尽きない。

とりあえず、この本を持って本屋さんへ行こうと思う。正に「必携」。
そしてほとんど知らなかった「横光利一」を読んでみようと思う。



2012/07/24

清水玲奈 / 世界の夢の本屋さん


京都のレコード/CD屋に勤めていた頃、本好きの先輩がいて、「恵文社」を教えて貰いました。
一乗寺というところにええ本屋さんがあるで、電車やとちょっと行きにくいけどな、と。
僕は神戸の人間なので当時は京都のお店についてほとんど知りませんでした。

ある休みの日に神戸から電車に乗って訪ねました。
ほんまにええ本屋さんやなあ、と思いました。
広すぎず、狭すぎず、興味をそそる本が多すぎず、少なすぎず丁寧に並べられていました。
一冊一冊きちんと仕入れているんだろうな、と思いました。

一言で言えばその空間と品揃えには夢が詰まっていました。

この素晴らしい「世界の夢の本屋さん」、第二弾には日本の本屋さんも載ると分かった時は「恵文社」絶対載るやろなと思っていました。

デザイン、レイアウトも綺麗で、世界中の本屋さんの声が聞けるのも読み応えがあります。
本棚に置いても、部屋に飾っても見栄えがします。

色んな意味で僕に取って夢が詰まった本なのです。

ちなみに僕が今一番行ってみたいのはここに掲載されている松江の「artos books store」さんです。


ミヒャエル・エンデ / モモ


 「忙しい、というのは心を失う、ということなんだよ」
この本を読んで思い出したのはこの言葉です。
どこで誰から聞いたのか僕は思い出せません。あるいは本で読んだのかもしれません。

ある日、実家の妹の本棚から「モモ」を失敬しました。手元には愛蔵版もあります。(これは友人から頂きました)
時間に追われ、お金を追いかけていくとどうなってしまうのか、童話という形式を取って描かれています。(時間を銀行に貯蓄する、というお話になっている以上、お金も恐らくこの本では重要なテーマだと思います)

多くの絵本や童話というのは大人にも読まれるべきものだと思うけれど、この本は正にそういった本の代表作と言っていいと思います。
読み継がれていく本というものはいつの時代にも通じるテーマがあり、何よりも人間の本質を抉り出しているものだと思います。そこには人間の素晴らしさと愚かしさが同居している。

子供たちがそうであるように、初めから全ての人間がここに描かれている「灰色の人間」ではないですよね。「何か」に心を支配され、色を失っていくものです。

あとがきで作者(あとがきにおいてこの物語はひとから聞いたと言っていますが、ここでは触れません)が鋭いことを言っています。

「わたしはいまの話を、過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きな違いはありません」

この物語は1973年に発表されています。

現代において、多くの人が感じているように僕も簡単な言葉で言ってしまえば、「幸せ」について考えています。
「モモ」がそうであるように人の心に耳を傾け、価値観に縛られず、少しの勇気があればそれに近づくことが出来るのかもしれない。
そういったことを「考えさせてくれる」この本は素晴らしい本だと思います。

2012/06/18

芥川龍之介 / 蜜柑



何度も読み返している小説の一つに芥川龍之介の「蜜柑」があります。
とりわけ、この素晴らしい「ちくま日本文学全集」の芥川龍之介を心斎橋の古本屋さんで買ってからは何度も読みました。


短いけれど、日常に誰もが感じた事のある疲れ、気付き、喜びを分かり易く書いたものです。
二十歳を過ぎた頃、難しいことを考える事はない、こういった小説を書きたい、書けばいいのだ、と僕は思ったのです。今も思うことがあります。
日常をこの蜜柑の様に一瞬でも暖かく彩ってくれる小説を届けたい、と。


最後のセンテンスが好きです。
「私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうしてまた不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである」


帰宅途中や、眠る前に、この小説の風景を思い浮かべます。少女の手を離れ、汽車の窓から子供たちの頭上へばらばらとこぼれ落ちていく日の色に染まった蜜柑を。
そして少し暖かい気持ちになります。
小説が僕の身体に血となって流れているのを感じます。
だから、本を読むことは辞められません。

2012/06/08

植本一子 / 働けECD

ラッパー「ECD」の奥様であり写真家、植本一子さんの育児(混沌)記です。
帯にはこう書かれています。
「月給16万5千、家賃11万、家族4人(と猫3匹)、生活してこれたのが不思議でしょうがない」
もともとECDの本が好きだったし、僕も子供が出来て簡単な家計簿を付けるようになったから手にとってみたのです。
そして僕もこの帯の文言に少し近い生活をしている。そしてそれを僕は恥ずかしい事だとは思っていない。そしてもちろんこの本にはそんな事に一言も触れていない。そんな本は面白くもなんともないですからね。

この本に収められた育児記は2010/2/11に始まり、2011/4/19に終わっています。各日付には家計簿が添えられています。電気代、食料、猫エサ、缶コーヒー、散髪代、ふりかけ、アイス、バス代、などなど日常が細かに刻まれていきます。やはりラッパーだけあって、レコード、CDの出費が凄まじい。僕も自慢では無いですがかなり音楽にはお金を掛けるほうです。しかしそれを生業にしている人とは比較にならない。

始まりはコーラ飲みすぎ、今日もレコード買ってる!など微笑ましい内容が多いのですが、日記が進むにつれ、一子さんの主に夫や家族、友人、周りの人々への気持ちがかなり赤裸々に綴られてくるようになります。ただの家計簿ではない。感謝、怒り、悲しみ、喜び、親への複雑な感情。そこには「生きている」という事実がはっきりと刻まれている。
そして僕は毎日どたばたと喜びと悲しみを背負ってこんな風に生きている家族が世界中にたくさんいるんだよな、と思いを馳せます。僕の隣に住む家族も、上に住む足音がバタバタうるさい家族もきっといろんな物を背負っているんだろうなと想像します。

やがて東京のど真ん中で3.11を迎え混沌に飲み込まれていく家族。そこではいかに「家族」や「友人」との絆が大切なのかに気付かされる。この部分は是非買って読んで頂きたいと思います。

あとがきのタイトルは「今日も誰かのために生きる」
お金に心を奪われて失ってしまったものはつまりこういうことなのだろうと思います。

ちなみに2009年にECDが書いた家族生活「ホームシック 生活(2~3人分)」(フィルムアート社)も素晴らしい本です。

2012/05/25

能勢仁 / 世界の本屋さん見て歩き


本屋さんをやろうと思っているので当然と言うべきか、本屋さん関連の本を読み漁っている。その中で一風変わった本に出会った。それがこちらの「世界の本屋さん見て歩き(出版メディアパル)」。題名通り著者が世界中の本屋さんを見て歩き、それらの本屋さんについて感想を述べていく。読んでみると分かるのが、これは本屋さんガイドというよりも旅行ガイドに近い。「世界の歩き方」とセットで持ち運びたくなる。


何が面白いかと言うと何よりも著者の文体が非常に読み易く(無駄がなく)、時に冗談とも思えるような語り口調で綴られているので他人の日記を読んでいるような気持ちになってくる。また、書店とは全く関係の無い冒頭かと思えばきちんとお店の内部に入り込んでくる内容に「ふむふむ」と言った感じで読み進められる。まずはきちんとその国の背景を説明する。


例えばこのように。
「ノルウェーの教育制度は小中学校は義務教育で無料である。教科書は有料で年間7~8万円かかるので親の負担になっている。高校は試験がなく入学できる。大学入試は高校の成績のよって入学が許可される。成績不振の学科がある場合には入学できないが、その救済として特別の授業を受けることが出来る」


「ギリシャはヨーロッパ圏であるが、一番アジア寄りの国という見方も出来る。面積は日本の約三分の一(北海道+九州)とそれほど広くはなく、山岳地帯が80%以上もある。総人口は1100万人(内アテネ市に360万人)で、東京都の人口より少ない。言語はギリシャ語であり、文字はギリシャ文字でその難解なことに辟易とした」


「オーストリアは第二次世界大戦の時には中立国として戦争には参加しなかった。そのために戦後は、国連関係の機関が多く置かれる都市となった~首都ウィーンは音楽の都である。日本では毎年、元旦に中継されるニューイヤーコンサートがウィーンの楽友協会から送られてくる映像を見ている人は多い。シュトラウスの華麗なワルツを聴いていると、また行ってみたいと思ってしまう」


「言語はタイ語、文字はインドのサンスクリット文字によく似たタイ文字である。街の中の看板がタイ文字で書かれているので、参ってしまった。まるでチンプンカンプン、だが最近になって英語表記が多くなったというので助かった。しかし英語はホテル以外はほとんど通用しないので、タクシーに乗るときは要注意である。時差は2時間なので時差ボケの心配はない。人口の約90%が仏教徒であるから、国民性は穏やかで優しい」


こんな感じで35カ国、202書店が案内されている。時差の話が出てくるのはタイだけだった。書店の名前はほとんど頭に入らなかった。それよりもその国の出版事情がよく理解出来た。出版社直営の書店が世界には多い。ヨーロッパに始まり、後半はアジアに入るのだが、後半の方が熱を帯びている気がする。国ごとのページ数も多くなっている。経済発展と同じように書店の未来を想像出来たのかも知れない。
ちなみに僕が一番驚いたのはこのセンテンスだった。
「世界中の書店で、書籍と雑誌を一緒に販売しているのは日本だけである。」
イタリアのページより。
ちなみに本屋ガイドみたいな本は数多あるが、書店の写真や店主のインタビューものが大半を占めているので日本の地方都市ごとの考察、書店の紹介をまとめた本はあまり無いので日本版も是非書いて頂きたい。
ブログもすっかり文体の影響を受けている。。

2012/05/11

カズオ・イシグロ / わたしを離さないで


大好きな小説家カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」を読み返してみました。
本当に不思議な小説です。ふと突然にあの物語は何の話だったのだろうと考える事があります。恐らく頭の中に「わからない」がずっと残っているんですね。こういった小説は何度も読み返してみたくなるもの。僕が好きになる小説の要因の一つだと思います。

初めて読んだとき、およそ1/3を読むまで一体これは何の話をしているのか、ここに出てくる人々は何者なのか、想像力を働かせながら読みました。読書をする時間が変えがたく貴重な時間に思えました。

「記憶」が小説を書く際の最大のモチーフだとNHKのドキュメンタリー(確かNHK)でイシグロさんは語っていました。実際イシグロさんの小説ほとんど全ては過去を回想する形で綴られています。「わたしたちが孤児だったころ」では「あれは何年前だった」など過去を追想する場面が頻繁に出てきます。時系列を追えなくなるほどに。混乱を多少覚えながらも物語の世界にぐいぐいと引っ張り込んでいくその力に僕は魅了されました。

そしてこの「わたしを離さないで」は現実とは全く世界の住人が現実とは全く切り離された世界について語っているように思えるのですが、最終的には僕が息をしている世界と何ら変わりのないことに気付かされ、悲しみに近いものを覚えました。

私達が「記憶」を元に生きていることは間違いないのですが、それは悲しいことなのか、優しいことなのか、暖かいことなのか、考えさせてくれます。それをこういった驚くような設定でかつ静かに語られる文体に繰り返し僕は魅了されます。読書の喜びそのものです。

ちなみにハヤカワepi文庫から出ている文庫は2冊買ってしまいました。4刷までが松尾たいこさんのイラストで5刷から民野宏之さんのイラストのようです。恐らく、映画化の関係でしょうか。その映画、まだ見ていないんですよね、うーん、見たい。


2012/04/17

高橋源一郎 / 「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について

正直に言うと僕は高橋源一郎さんの熱心な読者ではない。「日本文学盛衰史」は大好きだけれど。twitterの熱心なフォロワーと言った方がいいかも知れない。もっと言うと高橋さんがtwitter上で展開している「午前0時の小説ラジオ」のファンだ。だから、「あの日」から発せられる高橋さんの言葉に耳を澄ました。

この本にはタイトル通り、3.11以降の高橋さんの思考が凝縮されている。twitter上の言葉、そして小説や評論、エッセイがまとめられている。twitterのフォロワーとしては、一冊の本に、言葉が活字として印刷される事に喜んだ。twitterは即興だからその時の言葉の熱と冷気がリアルタイムに伝わる。この本にはその時の温度がしっかりと閉じ込められている。開けばいつでもその時の温度が伝わる。心臓の鼓動が高まる。もちろんそれは高橋さんの言葉が生々しく生きているからだと思う。しばらく、恐らく何年も、僕はこの本を読み返すだろう、そんな気がしている。そういった本はなかなか無い。

「正しさ」とはなんだろう。この混沌とした世の中にあって高橋さんは徹底的に考え続ける。安易に「答える事」が求められてきたこの時代に「考える事」だけが反抗の標に思える。全ての物事が二極化していく構造の中で立ち止まり、考える事の大切さ。立ち止まること。それは今を生きる人々が忘れてしまった行為だ。立ち止まり、振り返る事は学びであって恥ずかしい事ではない。それは未来への思考だ。思考を止めるな、考えろ。僕はそんな事をずっと考えていた。高橋さんは考えさせてくれた。

5月1日に高橋さんはこんな言葉を残している。僕は目頭が熱くなるのを抑え切れなかった。
"いまこの場にいない人間は当然ながら、発言することはできない。たとえば、来年、10年後、あるいは50年後に生まれてくる人間は、まだ存在すらしていないが故に、「現在」について何も発言する事は出来ない。だからこそ、いま生きているぼくたちは彼らへの「責任」を負っているのではないだろうか"
重要でシンプルな答えがこの言葉にはあるように思う。

2012/03/31

新美南吉 / ごんぎつね

この本を見つけたとき、子供の頃の優しい記憶が鮮やかに甦った。この物語を僕は母親に読み聞かせて貰っていた。そう、帯に書いてある通り、「母から子へ」という形で。僕は恐らくまだ小学一年生か二年生だったと思う。妹はまだ幼稚園だ。今は駐車場に変わってしまった母の実家の二階で僕、母、妹と川の字に布団を並べ、眠りに付く前に母は「ごんぎつね」の大きな絵本を両手に持ってゆっくりと語ってくれた。一度きりではなかったと思う。二度、三度あったと思う。優しさがすれ違いによって悲劇に変わる物語。ひとりぼっちの悲しさ。悲しさを見つめて生まれる優しさ。世の中にはそういうことがあるんだ、という事を子供ながらに少しだけ理解した記憶がある。

大人になって今読んでみると、母が語ってくれた物語が記憶ではなく記録となって僕の目の前に映し出された。あの三人で並んだ夜の息遣いまで聞こえるようだった。子供の頃恐らく理解出来ていなかった言葉も今では理解出来るからこんなにも鮮やかな情景を写していた物語だったのかと驚いた。児童文学、と謳いながらも菜種、百舌鳥、すすき、萩、六地蔵、位牌、といった親に聞かなければ分からない単語が物語に深みを与えていると思う。

でも、一番驚いたのは母がこの本を読んで涙を流していたことだ。
子供の僕はこの物語の持つ悲しみと現実の持つ悲しみをまだ何も知らなかったから。
僕はただ物語りにでは無く、母親が泣いているのを見て悲しくなった。
あの絵本はどこへ行ったのだろう。
子へ物語を読み聞かせている親は今どのくらいいるのだろう。

2012/03/14

岩明均 / 雪の峠・剣の舞/ヘウレーカ

「ヒストリエ」が今最も新刊が待ち遠しい漫画の一つ。待ち遠しくてたまにこの二冊を読み返す。この二冊を足掛かりにして「ヒストリエ」の構想を進めて行ったのが分かる資料であり、歴史漫画の短編としても凄く楽しめる内容だ。

共に僅かにしか出てこないが歴史上戦の天才とされる人物がそれそれ一人ずつ出てくる。たった一人でローマを相手に戦ったカルタゴの将軍「ハンニバル」と負け知らずの軍神「上杉謙信」だ。時代も違えば国も違う二人をどこまで話の核と考えていたのかは分からない。共に数ページしか出てこないが極めて冷たい目線で描かれている事は間違いないと思う。

感情を表さず(あったとしてもそれは怒りに限られる)、戦に勝つ事のみしか考えぬまたは考えられない人物として。

それを象徴するように「雪の峠」の表紙に描かれている謙信には「顔」がない。

対照的に主人公は感情豊かで人間味の溢れる人物として登場する。彼らは戦を勝ち負けではなく、どうやって終わらせるのか、そして終わった後に何が待っているのかを考えているように思える。そういった考えは「怒り」の向こうにある「優しさ」と「悲しさ」を持った人間にしか成す事が出来ない、と岩明さんは言っているように思う。僕はその「優しさ」と「悲しさ」の目線に心奪われている。

「ヒストリエ」はまだ序盤だがこれからそういった感情が描かれるのが楽しみでならない。
世界中で読まれればいいな、心から思う。

2012/03/02

ル=グウィン/ゲド戦記、平川克美/小商いのすすめ

ずっと前に古本で購入した「ゲド戦記」を最近棚から引っ張り出して、読み終えました。

「ファンタジー」という言葉で括れない奥行きというか底行きのある物語。購入のきっかけはやはりジブリで、映画を観て原作が気になっていたのです。

影との戦い、自分との戦いというのは社会と向き合い、自分と向き合えば向き合う程避けられなくなります。生活も仕事も言うなれば自分との戦いとの連続。ここではその壮大なテーマを空想の壮大な世界で描いています。空想の世界というのは無限の世界ですから、文学の使命とも言えるこの壮大なテーマはそういった世界でないと描き切れない、とファンタジーを書く作家は考えているのかも知れません。

クライマックスへ向けて海上を行くゲドの姿に何度も心が動かされました。

そして、読み進めて行く内に、もう一つ重要なテーマが書かれている事に気付きます。それは「均衡」というもの。実際この言葉が出てきます。この言葉は偶然にも先日読み終えた「平川克美/小商いのすすめ」(ミシマ社)にも頻繁に出てきます。サブタイトルにもなっていますね。これはbalanceという意味で飲み込んでいたのですが正確にはequilibriumになるようで、経済学で使われる言葉のようです。

要するに釣り合った状態(もちろん経済では需要と供給が)を指します。若いゲドは師匠達の戒めを心では納得出来ず、大きな力を使い自らを酷く傷つけてしまいます。その姿は今の日本の姿にも似ています。この「小商いのすすめ」ではその姿をとても丁寧に描き、私たちの進むべき道を示唆しています。若いゲド、そして「小商いのすすめ」の帯に書かれた「日本よ、大人になろう」の文字。この繋がりの発見が読書の喜びであり、学びなんだと私は感動しました。

ちなみにこの「ゲド戦記」が書かれたのは1968年、「小商いのすすめ」は2011年です。

2012/02/29

吉本ばなな / キッチン

昼に焼き飯を食べて、テーブルで一息付きながらコーヒーを飲む。

つまらないテレビを観る気にもならないので、視線を左に移すと本棚で、吉本ばななの「キッチン」が目に留まる。およそ10年ぶりに開いてみる。確か古本屋で買ったものだ。
ストーリーは全く覚えていない。

コーヒーを飲み終えるまで30ページを黙々と読んだ。

孤独に見える生活がふとした出会いで時計のように静かに回りだす。
田辺さんはどんな顔なんだろうと思いながら読む。

奇妙に見える日常だけれど、何でもないことのようにセンテンスが繋がれていく。

引き込まれるなあと思っているとコーヒーが無くなってしまって、本を閉じ、棚へ戻した。
結末は思い出せない。途中で綴じても心地よい余韻が残った。心地よい孤独と言ってもいいかもしれない。